世の中のすべては自分に関係のあることだけど、「それについては考えない」と決めないと、時間がいくらあっても足りなくなる。

と、ここで不意に話は変わる。
何故なら、これは本日思ったことのメモエントリーだからだ。

広告は作為的だから時々食傷気味になるのだなー。
誰かを「あやつりたい」という気持ちがわたしにはない。
導線という言葉より、動線という言葉が好きなのもそのせいか。

求めるものを与えるというスタンスに近いから、WebとWebサイト構築が好きなのだろうか。

デザインは、作為かそうでないか。
デザインも広告も突き詰めればアートになると思ってる(が、これはよく人から否定される。デザインはアートであってはいけないから)。
広告は作為、デザインは工夫、アートは欲望と排出。
もっといい言葉をいつか思いつくかもしれないが、今日思ったのはそんな感じだった。

作為はもっとシンプルにならないと。
人の思惑が絡み合いすぎているものには触れたくない、と思いませんか?

求めているものを、求めているときに、推測し与えてくれる広告は好きだ。
Amazonとか。
しかし求めているものでも、求めてないときに与えられたら、押し付けがましく感じそうだ。似て非なる広告手法。その辺りのさじ加減が難しい。

広告も元をただせば、企業の「人を助けたい、世の中をよくしたい」につながるはずなのだけど、表面上、どろどろして見えるのはなぜだ。人が集団になると、忘れ去られる思想があるからか。あと、善意の上で、間違った推測をして人が動くからか。多いほどそうなりやすい。伝言ゲームは難しいのだ。

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